コラム | ROCKET STAR

サーチャーたちの物語vol. 5 ~大組織の経営者として培った経験を胸に、想いを受け継ぎ、未来を創る挑戦へ。サーチファンドを通じて「人が輝く経営」を追求する、宮田彩也氏の新たな一歩~

作成者: ROCKET STAR|2025.11.27(Thu)

【スピーカー】
宮田彩也(みやた・あや)
1994年中央出版株式会社、2012年ヤフー株式会社入社、2018年株式会社電通デジタルアンカー(旧:株式会社ディグ・イントゥ)にて、代表取締役社長。その後、北海道支社長執行役員・副社長執行役員を務める。株式会社電通デジタルとの共同事業を立ち上げ、わずか6名でスタートした組織を約450名まで拡大し、2022年に同社を株式会社電通デジタルへ100%株式譲渡。2025年5月同社退任。

【インタビューアー】
荻原猛(おぎわら・たけし)
株式会社ロケットスター代表取締役社長 CEO。中央大学大学院戦略経営研究科修了。経営修士マーケティング専攻。 大学卒業後、起業するも失敗。しかし起業中にインターネットの魅力に気付き、2000年に株式会社オプトに入社。2006年に広告部門の執行役員に就任。2009年にソウルドアウト株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2017年7月に東証マザーズ上場、2019年3月に東証一部上場。2022年3月に博報堂DYホールディングスによるTOBにて100%子会社化。博報堂グループにて1年間のPMIを経てソウルドアウト取締役を退任。2023年4月に株式会社ロケットスターを設立し、代表取締役社長 CEOに就任。50歳で3度目の起業となる。

 

中央出版で営業を極め、ヤフーでは子会社契約社員から本体正社員、拠点長へという異例の昇進で前例のないキャリアアップを果たし、ディグ・イントゥ社長として数百名規模の組織を率いた宮田氏。

積み重ねてきた経験をもとに、迷いを超えて再び人生のギアを入れ直し、サーチファンドの世界へ踏み出しました。

「社長は配役」と語るその言葉どおり、立場に驕らず人と真摯に向き合いながら、企業の成長と人の幸せを両立させてきた宮田氏の歩みの裏は、人とのご縁を何より大切にする経営者としての哲学があります。

サーチファンドを通じてオーナー経営者としての挑戦を始めた宮田氏に、これまでの歩みや事業承継者としての目標をインタビューしました。

 

■ヤフー正社員や拠点長、そして社長就任。「前例がない」を越えて道を拓き、売却・退職まで

荻原:まずは自己紹介をお願いします。

宮田:社会人になってから、営業とマネジメントの領域で生きてきて、営業成績は常にこだわり、どの会社でも一定の成果を残せたと思います。特にクライアント様とどう一緒に成長するかを大切にしてきました。

マネジメントは20歳から経験しましたが、数えきれない失敗をし、でもそこから自分なりのスタイルができてきたと思います。

何より、常にどんな危機的状況でも、私を信じて力を貸してくださった方々がたくさんいた事実を誇りに思い、いつも皆さまに心から感謝しています。

荻原:これまでの具体的なキャリアはどのようなものでしたか?

宮田:新卒で中央出版株式会社に入り、業務が学習教材の訪問販売で、本当に大変な仕事でした。非常に厳しい環境でしたが13年在籍し、そのおかげで営業スキル・マネジメントスキル・人としての考え方など、今の自分の基盤は中央出版で形成されたと思います。

当時ヤフーの子会社が札幌にオープンすると聞き、契約社員としての入社でしたが、10ヶ月後にヤフー本体の正社員になります。その3年後、2015年に北海道拠点長になります。

荻原:そこからどのような経緯で株式会社ディグ・イントゥの社長に就任され、社長としてどのようなことをされたのでしょうか。

宮田:まず電通デジタルがニアショアを設立するにあたり「そこの社長をやってくれませんか?」と打診をいただきます。それが株式会社ディグ・イントゥです。

6名でスタートした会社でしたが、電通デジタルからの依頼が増えるにつれて事業が急拡大し、社員数も150名を超えるまでに成長し、やがて電通デジタルにとって欠かせない存在となり、最終的に電通グループ会社として迎え入れられました。

その後も電通デジタルの方々と連携しながら、高い要求にどう応えるか、社内からどうアウトプットを出すか、その育成をどう進めるか、市場価値の高い社員をどう輩出するかなど大変な業務がありました。

特に未経験者を採用しなければ事業はスケールしない状況でしたので、研修カリキュラムを作り、UPDATEを重ね、未経験者を早期に経験者に育てていくということが現場では一番大変だった部分です。

また、社員数が多くなるにつれ、責任者育成も必ず必要になってくるため、教育育成も大変だった部分です。最終的には沖縄の広告部門と合併し、450名までになりました。

電通デジタルから求められる水準がどんどん高くなり、それに短時間で追いつくのはとても大変でした。電通デジタルは日本屈指の広告会社ですから、こちらのレベルをどう上げるかが重要でした。

荻原:ディグ・イントゥの電通への売却時、大変なことはありましたか?

宮田:そうですね、電通グループへ参加したことで戸惑いや不安を感じた社員がいたのは事実です。そのため私は、皆を安心させなければと思い、社員説明会を行ったり、個別に会話し、双方の認識やすれ違いが生まれないよう丁寧に寄り添ったつもりです。

電通デジタル側にも、電通という大きな企業ゆえに環境の変化に戸惑う社員もいることや、グループでの仕事に不安を感じる社員がいることなどを率直にお伝えし、私への指摘や意見は厳しくてもよいのですが、社員にはできるだけ柔らかく接していただけるようにとお願いしました。

このような大役を終えて、退職しました。

 

■組織の一員から、想いを繋ぐ経営者へ。人生をかけた新しいステージの幕開け

荻原:転職でも起業でもなく、数ある選択肢の中でサーチャーを選んだのはなぜですか?

宮田:根本の理由はシンプルに「オーナー社長になりたかった」からです。

「自らの信念で経営を貫きたい」と思ったからです。

これまで大きな組織の中で経営を担い、多くの学びと貴重な経験をいただきました。一方で、経営の現場にもっと近い距離で、社員やお客様と向き合いながら、自分の想いや哲学を反映させていく経営に挑戦したいという想いが芽生えていきました。

とはいえ、ゼロからの起業は現実的ではありませんでした。家族のことも考えると、守るべきものがある中でリスクを取るには慎重さも必要です。

そんなときに出会ったのが、サーチファンドというロケットスターの仕組みでした。既に社会に価値を提供している企業のバトンを受け継ぎ、その想いを引き継ぎながら、自らの手で新しい成長を描く。この形であれば、これまで培ってきた経験を活かしつつ、次のステージに挑むことができると感じました。

人生は一度きり。このまま現状維持で良いのか、何度も自問しました。迷いもありましたが、「挑戦しない後悔だけはしたくない」という気持ちで決断しました。

何より、ロケットスターの仕組みは「想いを継ぎ、磨き、次へ繋ぐ」ことを大切にしている。それが、自分の価値観に深く共鳴しました。

荻原さんとも同じ年齢で以前からお互いを知っていて、荻原さんがどう歩んできたかも直接・間接的に見てきたので、信頼していたという安心感も大きな理由です。

荻原:今の年齢で挑戦することについては、どう受け止めていますか?

宮田:私は今年52歳ですが、いくつであったとしても、年齢を理由に諦める人がいるならば少し違うと思っています。

年齢を重ねるごとに経験が積み上がり、苦しいことも嬉しいことも含めて、たくさんの様々な喜怒哀楽の感情を知っているからこそ、今の自分があります。

だから何歳であっても、その自分を持って挑戦することが大事だと思っています。

ちなみに自分は死ぬまで仕事をしようと思っていますので、今の人生100年時代、まだ折り返したくらいです。

荻原:では、社長としての立場をどのように捉えていますか?

宮田:当時のヤフーの社長であった宮坂さんの言葉が心に残っているのですが、「役職は配役」という言葉を聞いたとき、改めて釘を刺された感覚がありました。

社長だから偉いということは全くありません。もちろん責任を取り、決断をしなければならない重要な場面はありますが、それも含めてすべては配役です。役者さんと同じで、自分の感情とは違っても役職者としての振る舞いを続けてきました。例えば、叱りたくなくても叱る、今褒めなければ心が折れそうだなと感じたら褒めるといったことです。

それに、会社で一番偉いのは、現場で手・体・頭を動かしている社員のみんなだと心から思っています。

荻原:部下との距離感や関係構築については、どうでしょうか。

宮田:私のことを「彩也さん」と呼ぶ社員も多いです。社員に対して立場や肩書きにとらわれず、身近な存在でいたいと思っています。

また正論だけでは人は動かないですし、いかに上手に人から力を借りるのかということが役職者としては重要な必要要素だと思います。

私は経営哲学として「自分も社員も共に成長し、共に幸せを感じる。」というものを大切にしています。数字のための経営ではなく、人の幸せの先に数字がついてくるような経営者を目指しています。

 

■事業承継は“想い”を繋ぐもの。実践と学びを重ねながら、人のご縁と真摯に向き合う経営者としての在り方

荻原:サーチファンドは事業承継という社会課題に挑む仕組みでもありますが、その点については、どう思いますか?


宮田:サーチャーになって初めて実感しましたが、まだまだ輝ける会社にも関わらず、後継者不足で廃業を考えている会社がこんなにもあることに驚きました。

私は人との出会いに助けられて生きてきました。だからこそ、誰かの想いを繋ぐことに対して使命感を持ちました。ありがたいことに「宮田になら考えてもいい」と言ってくださった方が複数いらっしゃり、無事に事業承継する運びとなりました。

事業継承させていただいた社長にお電話をしたとき「20年間、自分の子どものように大切に育ててきたであろう会社を私に継がせていただき、ありがとうございます」と御礼をお伝えしました。私に託してくださったと思うと、身の引き締まる思いです。

私は、事業承継は単なる経済活動ではなく、その人の人生の想いを受け継ぐことだと捉えています。これからもそういう仕事をして、向き合っていきます。


荻原:オーナーから「この人になら承継してもらいたい」と思ってもらえるのはどんな点だと思いますか?そして、どんな経営を実現していきたいですか?

宮田:私は真剣に話を聞いて、ジブンゴトとして考えます。事業承継には必ず想いが入っています。

オーナー社長の方々に正面から向き合い、真剣に話を聞き、積み重ねることで「この人なら託せる」と思っていただけると信じていました。

苦しいこともありますが、やり切る必要があります。これは、子育てにも似ていると思いますが、子どもが風邪をひいたり熱を出したりする大変さもありますが、それも含めて親なのでやり切る必要があります。

また「この人と出会えてよかった」と思っていただける経営者でありたいです。私ひとりが幸せになるのではなく、みんなで幸せを感じられる会社にしたいと考えています。

幸せは「なる・目標にする」ものではなく、「日々感じるもの」であり、みんなが「幸せだな」と感じられる会社を作りたいです。これが私の本心です。この想いを持って、私が選んだ道が間違いではなかったことを、必ず証明します。

私の人生は本当に幸運で、いつも誰かが手を差し伸べてくださいました。ロケットスターの方々・昔の職場の方々・友人・行きつけのお店の人など、自分はひとりではないと思えることがたくさんありました。

人との縁は今までもこれからも、最大の財産です。その皆さまにこれから少しずつ恩返ししていきます。これからも私と社員と会社の成長を見守っていただきたいです。